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    回転寿司(ソロ・飲酒部門)完全攻略ガイド実践編

    挫・人間『魔法の770円らんど』

    2025/11/28 21:00

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    くら寿司で飲みてえな。

     

    そんなふうに思ったのは、友人たちとの会話がきっかけだった。類は友を呼ぶの逆引きで考えればわかるように、私の友人は皆私のようにうだつの上がらない中年男ばかりである。
    その日、私はいつものようにその場で思いついたことをもっともらしく演説していた。テーマは老いを受けいれることについてだ。若者ぶるのはやめようという話のあと、私はこうつづけた。
    「むしろ、我々はもっとジジイっぽい振舞いを見につけるべきではないのか。このまま若いころとおなじような生活をしていては無理がくる。もっと回転寿司屋で飲んだり、ラーメン屋で飲んだり、そういうジジイにしか許されないような行為に予行練習を兼ねて積極的に励んだほうがいい」

     

    この提言に対し、友人たちは「たしかにそうだ」「居酒屋のように飲酒を目的としてつくられた店以外で飲むというのは、かなりジジイだ」「近所のラーメン屋にチャーシューメンマだけのメニューがあるのを意味不明だと思っていたが、あれはうちは麺なし酒飲みOKですよというメッセージだったのか」「それは、どうだろうね」と口々に賛同の意を示してくれた。
    それはたしかに心地のよい喝采だった。しかし、私の胸のうちはすっきり晴れやかというわけにはいかなかった。なぜなら、実際のところ私は回転寿司屋で飲んだことも、ラーメン屋で麺を頼まなかったこともなかったからだ。ただなんとなく見聞きした知識でそれらしく喋っただけで、所詮は実戦経験を積んでいないフェイク野郎の戯言だったわけである。
    私は自分に胸を張りたかった。フェイク野郎だと自覚しながら生きるのなんてまっぴらごめんだ。だから、回転寿司屋で飲まねばならなかった。近所にある回転寿司屋といえばくら寿司。くら寿司に、行こう。くら寿司で、飲もう。そう決めたのだった。

     

    先日の昼下がり、遅い起床となった私はシャワーを浴びるとそのまま家を出た。平日のこんな時間に出歩けるのは落伍者の特権だ。しかし、それを誇りに思ってはいけない。恥ずべき自由を謳歌しているのだと己に言い聞かせながらくら寿司への道をただ歩く。
    最寄りのくら寿司はちいさな商業施設のなかにある。施設のメインエントランスに設置された路上ピアノを老婦人が弾いていた。ラッドウィンプスだった。トリビュート出たもんね。

     

     

    気を取り直してくら寿司へ突入する。入店した私を迎え入れるのは店員ではなく機械だ。コロナ以降、回転寿司屋は急速にSF的世界観を獲得した。人数を入力すると席番号が印刷された紙が出力される。42番。日本のプロ野球において「しに」番として忌避されてきた番号だ(近年ではそういった扱いもされなくなってきている)。
    しかし縁起が悪いかというとそうでもなく、むしろアメリカでは黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンの背負った番号として全球団で誉れ高い永久欠番に指定されている。NPBにやってきた助っ人外国人が好んでつけたがる番号でもある。だから、うん、いい番号だ。きっと。
    昼どきをすこし過ぎた時間だったので、店内は閑散としていた。テーブル席のゾーンを抜け、奥まった場所にあるカウンター席を目指す。

     

    カウンター席に先客は三名。いずれも耳にワイヤレスイヤホンを装着し、一心不乱に寿司と向きあっていた。いや、いまレーンを茶碗蒸しが走っていった。ひとりは茶碗蒸しと向きあっている。しかし、その誠実さに疑いの余地はない。ここはなんてストイックな場なのだろう。背筋を若干伸ばしながら、指定された席に腰を下ろす。座った瞬間、目の前をフライドポテトが滑っていくのが見えた。なんということだ。もはやこの一列に、寿司を食っているにんげんはひとりしかいない。いや、しかし、それでいい。回転寿司屋では選択の自由が保障されている。ここはコロニーとはちがう。
    各席にはひとつずつタッチパネルが備えつけられていて、それを操作して注文を行う。私が最初に尋ねられたのはビッくらポンを利用しますか?ということだった。すこし考え、いいえを選ぶ。今日の私は回転寿司屋で酒を飲みたい私であって、五皿ごとに行われる運試しに身を投じたい私ではない。ささやかなギャンブルの、あるいはミニゲームの誘惑を前に、本道を見失ってはならないのだ。

     

    最初の注文だけは迷いなく決められる。日本酒だ。寿司屋で飲むといったら日本酒だろう。ビールではない。あるいはこれも私のなかで凝り固まった価値観なのか?しかし、いまさら立ちどまれない。この数日、回転寿司屋で日本酒を飲むことばかり考えていたのだ。先日の健康診断で脂肪肝の疑いアリという判定が下されたが、今日私は日本酒を飲む。絶対に。
    日本酒の注文が通って肩の荷が降りたのか、私は浮かれた様子で寿司をふたつ頼んだ。深い思案の伴わない、動物的な注文。欲求を前にして脳の皺を減らし、ただ指を画面に這わせるだけの尊敬できない生命体。そういった生きかたを嫌っていたはずなのに、寿司を前にするとこれだ。まったくこれではいつまでも……。いや、自省はこれぐらいにしておこう。つづきは家でやればいい。いまはただ、寿司を食って日本酒を飲もうじゃないか。ほら、注文の品がやってきた。残像を帯びた横滑りで。

     

     

    くら寿司で提供される日本酒は一種のみだ。名を冷酒無添蔵という。名前で察せるかもしれないが、くら寿司専用の酒である。おそらくはくら寿司での食事にあうようチューンあるいは選別された酒なのだろう。
    私はほとんど日本酒と縁のない人生(そもそも酒をそれほど飲まないし、飲む場合もたいていビールかハイボール、料理にあわせるならワインばかり飲んでいた)を送っていたのだが、昨年末あたりから日本酒に興味がでてきている。機会があれば優先的に日本酒を頼むし、珍しく家で飲む用に瓶を買ったり、ブルーバックスから出ている「日本酒の科学」を読んだりもしており、この一年弱で知識も経験も未熟なりに積んできたつもりだ。
    とりあえず味を見たいのだが、空きっ腹に入れるのもよくないので少量を舐めるように味わう。うん、うん、うん……日本酒だ。いや、えっと、日本酒だ。ちょっと甘い……たぶん甘口、のやつだ。はいはい、うん。ね。(ラベルを読む)あ~純米酒らしさあるね、うん。米の、純な感じ?わかるわ~。いやまあ……あ~…………この味でこの値段は安いじゃんね。

     

     

    そうこうしているうちに最初の寿司、大葉えんがわがやってきた。パック寿司でも回転寿司でもカウンターの寿司屋でも、いっつもこういう寿司からはじめてしまう。スタイルが定まっている、とは言いたくない。私は臆病なだけだ。臆病者にもえんがわはコリコリとした歯ざわりで応えてくれるし、大葉は気分のスッとする香りで鼻を通り抜けてくれる。なにも当たり前ではない。感謝という臆病者に残された最後の矜持を胸に、私はカウンターで頭を下げた。

     

     

    ふたつ目の寿司は数の子松前漬け。軍艦巻きだ。私は予てから軍艦巻きにおける具の量に疑問を抱いていた。多すぎはしないか、と。通常の寿司ネタにくらべて、軍艦を頬張ったときの口内に占めるネタとシャリの割合には偏りがあるように思う。これは物量にものをいわせた味覚への侵略行為と捉えられてもしかたがないだろう。
    しかし、発想を転換すれば、これはつまり余剰分を単独でつまみとして楽しんでくれというメッセージだとも考えられる。実際上部の数の子を箸ですくって口に運ぶと完璧につまみだったし、ネタがすこし目減りしたほうがバランスよく食べられた。きっと酒飲みなら誰しもが行っているテクニックにちがいない。

     

     

    みっつ目は活〆真鯛湯引き。鯛というのはいつどこで食べても贅沢な感じがする。実際値段もすこし高い。しかし実際の味わいはとても繊細で、子どものころしゃぼん玉をこわさないよう慎重に膨らませたころのことを思い出す。それぐらい味わいはほのかで、しかしうまい。しゃぼん玉だってあんなに神経をつかったが楽しかった。つまりはそういうことなのだと思う。
    ここまできて、ようやく私はほかの客がイヤホンをしていた理由に気がつく。店内が思ったよりも騒がしいのだ。ほかの客や店員の会話のせいではない。タッチパネルが注文の到着を伝える音声、食べ終わった皿を返却口に投入した際の処理音といった機械の音がうるさいのである。未来的状況ここに極まれり。イヤホンをするのがもはや作法の一環だと心得た私は、ここから音楽とともに寿司と酒と向きあうことにした。強くなりたいからBLANKEY JET CITYを再生する。

     

     

    よっつ目はかにみそ。これも軍艦族の例に漏れず、こぼれんばかりに盛られている。箸ですこしとって口にふくみ、日本酒で流しこむ。独特のにおいが強い食材だが、日本酒が通りすぎると跡形もなく消え去るからふしぎだ。ぬいぐるみのクリーニング動画とおなじ爽快感。つまりは浄化されること前提の臭みを蟹に要求していることになるわけだが、これはどれぐらい冒涜的な行いなのだろう。

     

     

    いつつ目はうな肝。また軍艦だ。あとで振り返るにこのとき私は守りにはいっていた。うなぎの肝が日本酒にあうのは当然だ。これもかにみそ同様癖のある味とにおいを流すのが気持ちいい食材だが、くにゃっとした食感を楽しむこともできる。うなぎが永遠に食べられる世界であることを祈りつつ、無添蔵をおかわりした。

     

     

    むっつ目は熟成漬けまぐろ。やはり守りにはいっている。そんな私を嘲笑うかのように、二貫のまぐろたちはありえないほど密着し、あたかも一貫であるかのような振舞いでレーンを滑ってきた。寿司でさえ寄り添っているというのに俺たちときたら……。気がつくとカウンター席には私ひとりになっていた。

     

     

    守りにはいることは恥ずかしいことではない。守りにはいってしまったと焦り、自分を見失うことが恥ずかしい。ななつ目にミニころチキンを頼んだのは焦りのせい以外の何者でもない。こういうヤンチャなメニューを頼むことを攻めだと勘ちがいしてはいけない。それは中指を立てたり楽器を破壊したりすることをパンクだと思うこととおなじぐらいまちがっている。ただまっすぐではないというだけで、すでに引かれた線であることに変わりはないのに。それをなぞっているだけでは、あなたはあなたになれない。
    しかし、そんな私の失策にもくら寿司は微笑みを返してくれた。ミニころチキン、うまいじゃないか。いつだって失敗はほんとうの教訓を与えてくれる。ひとつ、揚げ物はうまいということ。ひとつ、私は再検査に行くべきだということ。

     

     

    あなたのいいたいことはわかる。この注文は意味不明だ。やっつ目のあぶりチーズサーモン。私はこれを注文することでなにを達成しようとしていたのだろう。ミニころチキンにつづけてヤンチャなメニューを頼むことで、これが一貫した戦術であるかのように見せかけようとしたのだろうか。あまりにも浅はかだ。どれだけ取り繕おうが、自分を騙すことなんてできやしないというのに。
    もうほとんど洋食だろという味を味蕾に感じながら、私は自分の敗北を受け入れつつあった。回転寿司は自由で、だからこそ否応なく自己表現の場となってしまう。私が今日この場で表現したのは、自分の浅ましさと薄っぺらさだけだ。日本酒を飲もう、という目的だけが先行して、それ以外のことが疎かになっていた。あぶりチーズサーモンに醬油をかけるべきなのかすら判断できない有様だ。あれって味はしっかり濃いのに醬油かけないとまとまりがないような気がするんだけど、正解はどれなんだよ。

     

     

    敗北者は潔くリングを去るべきだろう。ここのつ目の京わらびもちをラストオーダーとして、私は店を出ることに決めた。甘味が慰めのようにからだに染み入る。私は泣いた。自分の情けなさにではない。すこしわさびが利きすぎていたからだ(※わさびは別添えです)。
    一時間の滞在で、支払金額は3000円ほどだった。敗北を知るという経験には安すぎる対価だろう。セルフレジで支払い、機械音声に見送られながら退店する。未来はディストピアではないが、冷たい平等の上を転がされることになる。そんなこと、SF小説を読んでも想像できなかった。

     

    外に出るとまだ夕方だというのにすっかり暗くなっていた。もう冬がすぐそこまで来ている。今年のクリスマスはどう過ごすのだろう。上振れで男だらけのクリスマスパーティ、平常運転で孤独。そのときはまたひとりくら寿司に来てもいいかもしれない。リベンジをさせてもらおうじゃないか。
    完全攻略ガイドと銘打った本記事だが、読んでわかる通り実際には攻略のこの字もない、ただの失敗の記録となった。私が弱いせいだ。しかし、仮に私の今回の挑戦が成功したとしても、あまり参考にならなかったのではないかと思う。回転寿司は我々自身を映す鏡であって、なにがただしいかは各々のなかにある正義と照らしあわせるしかないのだから。つまり、攻略ガイドらしい言葉で締めるならこうなる。

     

    この先はキミの目で確かめてくれ!

     

    ではまた

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