桃瀬くんの一か月

挫・人間『魔法の770円らんど』

2026/04/24 21:00

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※引きこもっていると書くことがなさすぎるため、お話をつくりました。

 

 どうやらわたしはうっかり死んでしまったらしいので、それならいっそ桃瀬くんの鞄についたキーホルダーにでも生まれ変わろうと思ったのだった。せめて文化祭までは。桃娘になった桃瀬くんを見届けるまでは。

 

 その馬鹿げた提案をしたのは当然というべきか馬鹿の韮澤で、あいつが吐き気を催すほどつまらないポーズ――右腕をまっすぐ上に伸ばして脇を左手で隠していた――で挙手をした瞬間から嫌な予感がしていた。
 高校二年の文化祭があと一か月というところまで迫った日のことだった。クラスの出し物がなにひとつ決まっておらず、業を煮やした担任が放課後に緊急居残り会議を強行したものの、誰もこれといった意見を出さないまま時間だけが過ぎていく。要はみんなやる気がないのだ。韮澤が手を挙げたのはそんなときだった。
「ハイハイ! 俺、いい案思いついた!」
 韮澤に発言権を与えたわたしたちにも責任はある。誰かがとりあえずコスプレ喫茶だのお化け屋敷だのとでも言っておけば、消極的な賛同が過半数に達して決定していたはずなのに。わたしだって、猫耳メイドになったり、受付に座って「中でなにが起きても保証はできませんよ」と真顔で脅したりするぐらいのことはやぶさかでもなかったのに。
「桃瀬にタオニャンやってもらおうぜ」
 タオニャン、という聞きなれないことばの響きにわたしたちがクエスチョンマークを浮かべていると、韮澤は黒板の前まで気取った感じで歩いていって、チョークでなにかを書きはじめた。その背中を見ていてもしょうがないので、わたしは窓側最後列の席を見た。たぶんほかにも何人かはおなじ方向へ視線を投げていたはずだ。そこには桃瀬くんの席がある。
 桃瀬くんは、羨ましいほど色白なこと以外これといった特徴のない地味な男の子だ。韮澤の口から突然自分の名前が出てきたことに困惑した様子で、教室内を落ち着きなく見回している。桃瀬くんから視線を前方に戻すと、ちょうど韮澤が書き終えたところだったらしい。内面を反映したかのように歪な文字はこんなかたちをつくった。

 

 桃娘

 

 響き同様、字面にも見覚えはなかった。中国語の読み方をすればタオニャンになるのだろうかという推測だけできる。ほかのみんなもおなじようなリアクションだ。韮澤は似合っていない茶髪をさわりながら言った。
「昔の中国に、桃と水だけを口にして育てられた少女がいたんだとよ。それが桃娘。桃娘の体液は桃のかおりがして甘いらしい。いまから文化祭まで、桃瀬には桃と水だけを摂取して桃娘になってもらう。なんせ名前に桃が入ってるからな。教室の真ん中に座っててもらえば、一応見世物ぐらいにはなるだろ」
 いつもこの学校という場でどれだけふざけられるかを見えないなにかと競っているとしか思えないほど馬鹿な韮澤だけど、この提案は歴代最高クラスに馬鹿げていた。
 当然こんな意見は一笑に付されておわりだろうと思っていたのだけど、教室の空気はなんだかおかしかった。「よくわかんないけどいいんじゃね」「けってー」「もうなんでもいいよ」そんな言葉があちこちから発せられる。みんな早く帰ったり部活に行ったりしたいのだろう。気持ちはわかる。とはいえこれはさすがに、と苦言を呈してみるかどうかを考えているうちに先生が言った。
「桃瀬、お前はどう思う」
 いやどう思う、じゃなくてあんたが却下するべきだろ、と毒づきつつ桃瀬くんのほうを見る。桃瀬くんはパサつきの一切ないやや天然パーマぎみの髪の毛の下で、眼を忙しなく動かしていた。こういうかたちで注目を浴びるのは、生まれてはじめてだったのかもしれない。
 だけど、その口から発せられた言葉は意外と力強かった。彼は声変わりしていないんじゃないかと思うほどに透き通った声でこう答えた。
「ぼ、ぼくでよければやってみます。その、タオニャンを」
「よし、決まりだな」と先生が言った。韮澤も満足そうに頷く。
 おざなりな拍手が鳴る教室のなかで、わたしだけがえー、と小声で反抗した。でも、小声だ。大声で反対しない時点でわたしだって賛成と見做される。馬鹿の韮澤の馬鹿げた提案に。


 わたしたち全員が共犯になって、桃瀬くんを桃娘にする。


 翌日から、桃瀬くん桃娘化計画は始動した。クラスに割り振られた文化祭用の予算で桃の缶詰が大量に購入され、桃瀬家へと送られた。桃瀬くんがいつも麦茶を入れていた水筒は自宅謹慎を言い渡され、毎日ペットボトルの水を飲むことが義務づけられた。
家族はなにか言わないのかと思ったのだけど、特に親しいわけでもないわたしと桃瀬くんの関係性でそんなことは聞けなかった。母子家庭で、ほとんどの家事を桃瀬くんがやっているらしい、と噂で聞いたことがあった。
 昼休みにお弁当ではなく桃の缶詰を食べる桃瀬くんの姿は、数日経てば日常の風景になった。初日こそ興味津々といった様子で「ウマいか?」なんて聞いていた(ウマいに決まってんだろ)韮澤擁するおふざけグループも、三日目にはグループ内の誰かの弁当に入っていたひじきごはんを陰毛に喩えて茶化すことに気を取られていた。ほんとうに馬鹿すぎる。
 自宅で摂る朝食や夕食については、写真をクラスLINEにアップすることになった。もちろんそんなのいくらでもごまかせる。たしかに画像は毎日しっかりアップされたけど、これを桃瀬くんが食べている保証はどこにもない。要はそれぐらいみんな適当なのだ。でも、たぶん桃瀬くんは律儀に桃と水だけを口にしているのだと思う。その証拠に、日を追うごとに元気をなくしていっているように見えた。
 桃瀬くんに話しかける機会に恵まれたのは、文化祭まで一週間と迫った日の放課後だった。提出物のことで担任から呼び出しを受けたあと、ひとりで廊下を歩いていると桃瀬くんの姿が目に入った。近づいて、声をかける。
「桃瀬くん、帰るとこ?」
「え、あ、うん。平っちを待ってるんだ。帰る方向いっしょだから」
 平っちって誰だっけ、とわたしは一瞬考える。そういえば、桃瀬くんと仲のいい科学部の男子が平田という苗字だったかもしれない。
 桃瀬くんは普段ほとんど絡みのないわたしに話しかけられて戸惑っているようだった。たしかに派手めな女子グループに属しているわたしと、おとなしめな男子グループに属している桃瀬くんはまったく関わりがない。だけど、わたしは一方的に桃瀬くんのことを気にかけていた。今日だってやっぱり顔色が悪いような気がする。
「桃ばっか食べるの、辛いでしょ」
「うーん、いや。まあ、ちょっとは」
 桃瀬くんのいかにもこぼれた本音です、というか細い声を聞いて、わたしのなかで罪悪感ゲージがグッと下がっていくのを感じた。あのとき大っぴらに反対できなかったことへの罪悪感。桃瀬くんが毎日アップする桃と水の写真を開いて閉じるときのあの気持ち。
「あのね、いやだったらいやだって言ったほうがいいよ。こんなの絶対身体に悪いし、韮澤の意見なんてふざけんなって言って跳ねのければよかったのに。だいたいググったら桃娘って都市伝説だしほぼ創作で確定らしいじゃん。そんなの出し物として不成立でしょ」
 いまさらすぎる正論をわざわざ本人に伝えているのは誰を思ってのことなんだろう。自分でもよくわからない。もしこれを真に受けた桃瀬くんが翻意して桃娘がナシになったら、韮澤を筆頭にクラスメイトは桃瀬くんを責めるにちがいない。急にそんなこと言うなんて身勝手だ、と。そのときわたしは桃瀬くんを庇えるだろうか。たぶん無理だ。またあの放課後の会議のときとおなじく、小声で反対するだけで終わる。
 そんなわたしの仮定は、桃瀬くんの笑顔であり得ないものになった。ちょっと女の子っぽい控えめな笑顔を浮かべながら、桃瀬くんは言う。
「心配してくれてありがとう。でもぼく、がんばりたいんだ。正直桃娘ってなんなのかよくわからないけど、ぼくみたいな地味なやつでもみんなの役に立てるなら、それだけでうれしいからさ」
 わたしはそっか、とだけ答えた。
 ほかになにか言えただろうか。


 このやりとりから約二十分後、わたしはあっけなく命を落とす。校門を出てすぐのところにある交差点付近で、明らかに制御を失っていたタクシーに轢かれて。衝突の瞬間にわたしの意識は消え、数メートル飛ばされた身体がアスファルトに叩きつけられたのと同時に命も消える。
 そしてわたしはキーホルダーになった。
 気がついたのはわたしのお葬式の真っ最中で、一瞬生き返ったのかなと錯覚したのだけど、すぐに自分がキーホルダーだということを思い出した。思い出した、だと正確さがすこし足りない。確認した、だったり知っていることを知った、だったりもする。そのあたりの感覚がグラデーションになったような感情だ。人間からキーホルダーになった場合に特有のものなのかもしれない。
 狭い視界のなかで、希望通り桃瀬くんの学校指定鞄につけられたキーホルダーに生まれ変われたことを把握した。怪獣のようにもデフォルメされた犬のようにも見える、冴えない見た目のキーホルダー。たぶんクラス全員で出席しているのだろう、おなじデザインの鞄たちが会場の隅にまとめて置かれている。幸運にも、わたしの位置からはクラスメイトの座っているあたりがよく見えた。
 キーホルダーの意識はすぐに拡散していってしまうらしく、集中しているのがむずかしい。クラスメイトの一団から、仲がよかったはずの数人のことすらうまく見つけだせないなか、わたしが最初に捉えたのは韮澤の姿だった。
 韮澤は泣いていた。号泣だった。ほかの生徒はみんな身の処しかたがわからないなりに沈痛な面持ちを浮かべてみている、といった様子なのに、ひとりだけ全身でかなしみを表している。馬鹿すぎて感情がほんとうに喜怒哀楽の四つしかないのかもしれない。混じりけのない哀というものがあるなら、これぐらい激しい涙を伴ってもふしぎではない。
 次に認識できたのは桃瀬くんだった。桃瀬くんは大多数のクラスメイトと同様、あまり上手ではない葬儀用の表情をしていたけど、そこに疲労の色がハッキリと乗っていた。最後に会ったあの日がたぶん二日か三日前で、それだけの期間でまたやつれたらしい。
 ぼんやりと桃瀬くんの顔を眺めているうちにお葬式は終わった。キーホルダーになった身からすると、自分のお葬式というのはこの上なく他人事だ。泣かれようと焼かれようと、わたしはここにいるのに。そんな身も蓋もないことを考えていたら、突然鞄ごとひょいと持ち上げられた。桃瀬くんがこれから帰宅するらしい。
 葬儀場の外はまだ明るくて、お葬式って午前中にやるものだったかな、という記憶は頼りない。駅前で先生を含むクラスのみんなと別れた桃瀬くんは、電車に乗っているあいだも、駅からの道中も無言でいた。ひとりなのだから当たり前だろうけど、考え込むような表情が印象に残った。
 とあるアパートの一室に入った桃瀬くんは、リビングを突っ切って自分の部屋へと進んだ。ほかに人がいる気配はない。わたしごと鞄をベッドに放ってから、部屋を出ていく。しばらくすると水音が聞こえてきた。シャワーを浴びているようだ。お葬式のあとにすぐシャワーを浴びたくなる気持ちは、なんとなく理解できる。
 シャワーを浴びて戻ってきた桃瀬くんは、トランクスを前後逆に履いてしまったらしく、わたしの見ている前でそれを直した。わたしは桃瀬くんの裸を見たわけだけど、特にこれといった感想もなくふうん、とだけ思った。それと同時に、わたしの持っていたキーホルダーも、わたしの裸を見てふうん、と思っていたのかなと考える。そしてその考えにもまた、ふうん、と思った。
 日曜日の午後を、桃瀬くんはのんびりと過ごしていた。宿題をやったり、漫画やスマホを眺めたりしている姿を見ているだけでどんどん時間が経過する。所作がいちいち小動物的で、見ていて飽きない。
 窓の外が暗くなりだすと、桃瀬くんは部屋のカーテンを閉めて灯りをつけた。そのまま部屋を出ていくと、再び取り残されたわたしの耳に、カチャカチャという音が聞こえてくる。しばらくして戻ってきた桃瀬くんの顔は、出ていく前より沈んでいるように見えた。わたしのそばに近づいたとき、桃の華やかな香りがした。気のせいだ。キーホルダーには嗅覚なんてない。


 どうやらキーホルダーもねむるらしい。いつのまにか時間も場所も移動しているということが不定期に起こる。わたしは学校にいた。
 ロッカーの中から、授業中の誰もなにも大切じゃないみたいな教室を、休み時間の騒がしい教室を、移動教室でしんとした教室を、わたしは定点観測した。
 教室の様子は、よく知ったものとなにも変わらないように思えた。わたしの席に花瓶が置かれていること以外は。わたしが所属していたグループのみんなも、ひとり減った事実を窺わせないぐらいに、違和感なく会話をしている。自分にしかできないと思っていた話題のパス出しはほかの誰かが自然に行っていたし、目立たないながらも雰囲気を盛り上げるのに必須だと思っていた強弱自在の相槌は、なくても特に問題なかったようだ。
 昼休みの教室から聞こえる会話に、ときどきわたしの名前が出てくることがあった。みんなお葬式のときの表情を希釈した上に好奇心を重ねたような顔で、わたしの死因となった事故について語っていた。
 それらの内容を繋ぎあわせると、どうやらわたしを轢いたタクシーの運転手は、事故の直前に急な発作かなにかで意識を失っていたらしい。私を轢いたあと塀にぶつかって止まった車内で、特に目立った外傷もなく事切れていたそうだ。
 私はもうすっかりキーホルダーだから、事故そのものについて特別な思い入れはない。不可避の不運に対する怒りもなければ、事故の記憶がフラッシュバックして恐怖したり、自分が死んでしまったという事実にかなしんだりもしない。キーホルダーにできるのは、いろいろな物事について考えて、風を確かめるようにじっとすること。ただそれだけだ。

 教室のなかで、桃瀬くんだけが異質なもののように見えた。ほとんどひとりでいて、机と椅子が成す群れのなかを離れ小島みたいに浮かんでいた。たまに平っちくんといるときでさえそうだった。なんというか、光のあたりかたがちがうというか、ひとりだけべつの素材でできているというか、そういう違和感。桃ばかり食べていると、肉や魚や米や野菜を自在に食べているみんなとはちがってしまうのかもしれない。わたしはあんまり本気ではなく、そう考えた。

 

 こんな調子でキーホルダーとしての日々は過ぎていく。わたしが飛び飛びの意識でねむったり起きたりしているうちに、いよいよ文化祭当日を迎えた。
 結局桃瀬くんは見事に一か月を桃と水のみで乗り切った。朝食として最後の桃を食べた桃瀬くんに、わたしはできない拍手を送る。パチパチ。ほんとうに偉い。
 だけど、わたし以外のひとたちは桃瀬くんのことを褒めてはくれなかった。貶すこともなかった。登校した桃瀬くんを待ち受けていた韮澤が、文化祭の開催される朝九時から十五時までのあいだ教室から離れないよう伝えにきた以外、誰も彼に言葉をかけなかった。平っちくんはどこに行ったのだろう。科学部が実験かなにかをやるから、その準備に忙しいのかもしれない。
 九時になると、桃瀬くんは机の撤去された教室の中央にポツンとひとつだけ用意された椅子に座り、スマホを弄ることも突然ブチギレて窓ガラスを割ることもせずにじっとしていた。なにもない空間の一点を見つめ、人間ではなく鑑賞される作品として存在しようと心がけているようだった。黒板に書かれた「あの桃娘がここにいます!」という文字が、女子に任されたと思しきやたらキラキラした装飾と合わさって虚しさを加速させる。
 教室の外には配置が義務づけられている受付係がひとりだけいて、ほかには誰も桃娘の展示には関わっていない。みんな所属している部活での出し物に忙しい。あるいは、友人や恋人と文化祭を回るのに忙しい。自分たちが多数決で生み出した桃娘のことなんて、クジ引きでハズレを引いたときに受付を担当するぐらいの責任感でしか捉えていない。
 そんなふうにやる気も活気もない出し物だから、当然客もやってこない。場所もよくなかった。わたしたちの教室は、四階の奥まったところにある。偶然誰かが立ち寄る可能性は著しく低い。その上宣伝だってまともにやっていないはずだ。
 それでもどこから聞きつけたのか、いちどだけ見知らぬ男子生徒ふたり組が教室の前までやってきたのだけど、受付の生徒と言葉を交わしたあと、開けっ放しのドアの向こうから桃瀬くんの様子を窺ってすぐに引き返していった。嫌な感じに口角を持ち上げたふたつの半笑いが、サッと一瞬でべつの感情に塗りつぶされるのをわたしは目撃した。きっと桃瀬くんも、見た。あれは恐怖だと思う。この光景の不気味さへの。
 教室の窓とドアは換気のために開放されていて、そこから文化祭のあらゆる喧噪が遠く聞こえてくるのもさみしさを助長していた。正午すぎの中庭では韮澤がボーカルを務めるバンドがライブを行い、その時間だけは度を越した音量によって音楽以外のざわめきはかき消された。元から歌が下手な韮澤は最後の曲の前にMCで突然泣き出して、鼻と喉が詰まった声のまま歌われたパンク調のラブソングは、音程の概念を喪失したかのような出来栄えだった。でもまあ、悪くはなかった。
 結局、ひとりも教室内に踏み入ることがないまま、文化祭終了の時刻が近づいてきた。あと三十分で終了だというアナウンスが流れ、ざわめきを通して感じる雰囲気もどこか終わりへと向かう気怠いものへと変わっていく。
 誰もやってこなかったことについては、妥当な結果だと思う。だって桃娘なんて意味不明だ。この教室の状態を外から見れば、ただ男子生徒がひとり椅子に座っているようにしか思えない。彼がこの一か月どんな食生活を送ってきたかなんて、どう判別できるというのだろう。
 ああ、そういえば韮澤は、桃娘の体液は桃のかおりがして甘いなんてことを言っていたっけ。もしお客さんが来たときは、耳のうしろあたりを嗅がせて「ほら、桃のにおいがするでしょう」なんて自信ありげに言えばよかったのかもしれない。桃瀬くん本人がそんなことを言うとすこしいやらしい感じがするから、尋ねる係が必要だ。せっかくならわたしがやりたかった。そうしたらお客さんが来なくても、わたしが桃瀬くんのにおいを嗅いで「ほんとうに桃のにおいだね」と嘘をついてあげたのに。
「うっ、うう」
 突然、ちいさな呻き声が聞こえてきた。案の定声の主は桃瀬くんで、彼は椅子に座ったまま身体を屈めている。さっきまでなんの感情も窺えなかったのは単に努めて平静を装っていただけで、とうとう抑えきれなくなったものが嗚咽として漏れてしまったようだ。彼は桃娘が来客なしで終わることにショックを受けているらしい。いったいなにを期待していたのやら、と呆れると同時に「みんなの役に立ちたい」と言っていた表情が思い出されて、チェーンのあたりがチャラッと鳴る。
 とうとう本格的に泣きはじめてしまった桃瀬くんは立ち上がり、よたよた歩いてこちらへ近づいてきた。鞄に入れたティッシュかハンカチを取り出したいのだろう。ファスナーを開け、鞄のなかを探っている桃瀬くんの頬から、涙が一滴垂れた。その一滴がわたしにかかった瞬間、わたしは自分の生が終わりを迎えようとしていることを唐突に理解する。キーホルダーとしての生、わたしとしての生が。蜜に浸した紐がほどけるようにして、あたたかにやわらかに、わたしという存在があいまいになって消えようとしている。
 たしかにわたしは文化祭での桃瀬くんを見届けたいと思っていた。文化祭が終わりつつあるいま、わたしの役目は終わったと言っていい。消えることにはなんの抵抗もない。
 わたしは意識の最後に残った切れ端で、桃瀬くんの涙を感じ取ろうとする。彼が桃と水だけで過ごした一か月の結晶を受け取ることができるのは、わたししかいないのだ。涙は一滴だけでは終わらなかった。もう一滴、さらに一滴。いつまで鞄を探っているのだろう。もう一滴、いやこれは鼻水か。きたないなあ。
 キーホルダーには視覚も聴覚も触覚もあるのに、味覚と嗅覚はない。そのことが惜しい。だけどわかる。この涙は絶対に甘い。

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